作成開始 : 令和5年(2023年)07月29日(土) 作成終了 :
令和5年(2023年)11月12日(日)
何だか自分のことを振り返ってみたくなりました。
とあるネット友人のサイト、記事を見ていたら今までの自分を振り返ってみたくなりました。
思いつくまま、記憶のままあることないこと書いてみます。
聞いた話も含まれています。
■生まれ
昭和31年(1956年)6月29日 秋田県平鹿郡雄物川町石塚(現在は 秋田県横手市雄物川町石塚)
東の一番端でした。あと150mくらいで隣町で自宅から隣町のとある小学校が見えていました。
小学校の頃は、すぐ近くに小学校が見えているのに何で3kmも離れた学校に行かないといけないのだろうなんて思っていました。
長男として生まれました。
2つ下の弟(秋田で家督継ぎました)、5つ下の妹がいます。
補足
先の大戦中、満蒙開拓団で満州(中国北部)で広大な土地を有して何か作物を作っていたそうです。
祖父は徴兵で陸軍の兵士でしたが終戦とともにシベリア送りになり亡くなったそうです。
そして、日本の敗戦で大変な思いをしつつ祖母と子供8人(男6人、女2人)で帰国したそうです。
上の女子(おばさん)は、中国人の方から娘に欲しいと請われたそうですが、父が不憫に思い断ったそうです。
長男であった父と次男、三男のおじさんたちが協力しあったそうです。
よく生きて帰れたなぁーと父が生前良く話してました。
■幼年期(0〜4歳)
おばあちゃん子でいつも祖母と一緒だったようです。いわゆる初孫ですね。
まぁ、この頃の記憶は無いですね。
6番目のおじさんが、横手高校に通学しておりある年まで秋田の実家にいたとのことです。
母から聞いた話だと、母は祖母と折り合いがあまり良くなく、たまに俺を背負って母の実家に帰っていたとのことです。
父が迎えに来るまで。
■少年期(5〜14歳)
幼稚園は行ってません。
小学校は沼館小学校でした。(今は廃校)
近所の同年の友人が男女近隣で3人いて遊んでたと思います。
小学校に入学する前と小3くらいには、祖母が東京のおじさん、おばさんのところへ行く時に連れて行ってくれていました。
いつだっかは忘れたけど、父の4番めの兄弟のところへ行った時に大雪で近くの広場で誰かが雪だるま作っていた記憶があります。
また、このおじさんちには既に白黒テレビがあってなんかの番組でジェットコースターに乗っている場面があって、それ見て大笑いした記憶があります。
笑いのツボにハマってしまったのでしょうね。
ちなみに、自分の実家に白黒テレビがついたのは、自分が小1の時です。父の6番めの兄弟から送られたのだと言ってました。
これまた、何歳の頃か忘れましたが、冬、こたつに入っていた時に左足にやけど(当時のこたつは電気ではない)して雪の中を父が3km離れた沼館の医者に連
れて行ってくれました。
おんぶだったか。ソリだったかは覚えていません。
小1と小2の冬、急性リウマチ熱で各々一ヶ月くらい学校休んだ。沼館の医師が来て太い注射をされていた。
村の婦人会主催でバスで親子旅行に行ってました。
母は歌がとてもうまく、バス内でマイク持って民謡歌ってました。
小学校時代の学校での事はあまり記憶にありません。
一昨年あたり、小学校の同級生だった聡とふとしたことからメールで繋がりができ、各々が持っていた写真とエピソード交換しました。
聡は小学校時代のことを良く記憶していて、エピソード見て自分もなんとなく覚えていたことが認識できました。
ただ、その後聡とは連絡がとれなくなりました。
メールしても返信ありません。何かあったのではないかと心配しています。
小学校時代に記憶しているのは、雄物川河川での「なべっこ遠足」
木造の古い校舎であったこと。
床の穴から下覗いたら10円落ちてました。
小1の時、どういうわけだかクラスの広にいじめられましたが、輝和が助けてくれました。いいやつ!!!
彼とはその後4年生くらいまで仲良くしてました。少年誌(少年マガジン、少年サンデー)を買って交換してました。
5年から6年は秀広と仲良くしてたのですが、何やって遊んでいたか忘れました。
冬はお弁当をストーブの熱で温める木で作られた本棚みたいなやつに弁当のせて温かい昼食がとれていました。
小学校5年の時に学校給食の試行としてまず牛乳が一人ひとりに配られました。
自分はその牛乳が好きで、飲めない人から頂戴して2〜3本飲んでました。
広は飲みすぎてゲボしてました。
5年生のいつ頃からか完全給食になって、コッペパンに穴あけてそこにおかずを入れて食べました。美味しかったです。
クラスの大部分の人が嫌いだった「ひじきの煮物」が好きで、かなりおかわりしてました。
スポーツはあまり得意でなく運動会でも活躍できませんでした。
でも、5年生の運動会 100m走で陸上部の選手を破り1等をとれた時は興奮しました。ここから体力がついてたみたいです。
絵が好きで図画は5でした。
クラスの黒板脇に図画で書いた絵が飾られていた記憶があります。
小学校時代のアルバムやクラス写真を見ると1年から6年まで同じクラスだった人がいました。
お誕生会をやってくれてましたが、自分はその頃出てきた「インスタントラーメン」が大好きで楽しみでした。
ただ、お誕生会のメンバは記憶にないです。先の友人が沼館から自転車で来てくれていたようです。
自分も行ったのでしょうね。覚えていません。
修学旅行は松島、仙台でした。旅館(松島 望月)での食事が美味しかったです。
クラスメイトの男子が女子風呂を覗いて見つかり先生からお叱り受けてました。
同い年で同じ村の和順の長兄はメカ好きで、今で言うゴーカートみたいのを自作して走らせてました。無免許でした。
この人はまた、大きなラジコン機を飛ばしていました。
鹿島大明神の行灯や鹿島作りを6年生の時やりました。
「かしまー、かしまー」と皆で言いながら行進し近くの川に流しました。なんか、行灯(?)提灯(?)の光がとてもきれいだった。
村の西端にはプールがありました。夏になるとそこで泳いでました。
雷鳴って、大雨の日に笑いながら潜ったことありました。
水中で雨の音を聞きました。
そのすぐ近くに用水ポンプがあって、夏になると地下水吸い上げてました。
とても澄んだ水で、深く潜るとキーンと耳鳴りがしました。水中から上見ると歪んだ空が見えました。
村の剛と片岡の家へ遊びに行ったことがあります。ギターがすごくうまいやつです。今でも地元で活躍してます。
彼の影響でプラモデル作りをしました。
自分は第二次世界大戦頃に活躍した戦闘機が好きで、1/72や1/32のスケールのやつをかなりたくさん作りました。
ピースコンは買えなかったので全て筆塗りです。
プラモデル作りは25〜26歳くらいまで続きました。
中学校は雄物川中学校でした。(今は廃校)
3年間、自転車通学でした。
他の連中はイルミネーションが付いた変速機付きのスポーツサイクルでしたが、自分は家が貧乏だったのか親戚からもらったものでした。
ママチャリではなく、変速機無しのなんとなくスポーツサイクルでした。
貧乏と言えば、父は冬場は東京の建設現場へ出稼ぎに行ってました。
中学校も1年の時の記憶はあまりありません。
なんか、生意気だったやつがいた覚えはあります。先生は3年間同じ担任でした。あだ名はカッパマンです。いつもカッパ着てバイク通勤してたから・・・
1年の(日帰り)バス旅行は田沢湖でした。
クラブはバレーボール部でした。
入部当時は9人制で当時の3年生が6人制のプレーとルールに馴染むため取り組んでいました。
そして、地域の大会や県大会では6人制ルールでした。
9人制であればローテーションがないので身長の低い人でもレシーバーとしてフル出場できたのに、6人制だと身長が高く、スパイクの打てる人でないとフル出
場ができなくなり、背の低い人はなんだか気の毒でした。
練習中に思いっきりスパイクするのでなく軽く叩いた時、監督に怒られた記憶があります。
中学2年でクラス替えがあり、このクラスからの思い出はたくさんあります。
2年の(日帰り)バス旅行は中尊寺でした。
大曲だったか横手だったかの映画館で「卒業」(ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス)を見ました。
「エレーン」教会から花嫁衣装の彼女をさらいバスで逃げるのは印象的でした。
この映画でサイモン&ガーファンクルを知りました。
「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボロー・フェア/詠唱」「4月になれば彼女は」「プレジャー・マシーン」「ミセス・ロビンソン」
恋をしました。初恋です。
学校のマドンナ的存在で同級生、自分好みの顔立ちとスタイルでした。他にも彼女を好きな男はたくさんいました。
当時、日記に彼女への思いを綴ってました。
同じ風紀委員の仕事をしてました。
好きな娘と一緒なのに、本当は嬉しくてドキドキしていたのに、つっけんどんな接し方してたと思います。本当はもっとお話したかったです。
この娘には結局打ち明けることはしなかったです。彼女が誰を好きだったのかもわからずじまいでした。
自分のことを好いてくれた娘もいました。本人から直接聞いたわけではなく、他の人から「●●さんがあなたのこと好きなようだよ」ってな感じです。
自分も割と好きな娘でした、笑顔が素敵でした。・・・が、こちらも双方打ち明け話はなしでした。
バレーボール部では(当時は)割と身長もあり垂直ジャンプが89cmあって結構スパイク打ててました。
1年、2年の練習開始はランニングからでした。暑い日は嫌でしたね。
冬は体育館で基礎トレーニングしました。腕の力だけで体育館の天井まで上がることができていました。
ですが、ある時からスパイクを打つフォームがおかしくなり威力のあるのが打てなくなり退部しました。
冬のかなり雪が積もった頃、バレー部の練習が終わって2階のトイレから何気なく外を見ていたら人が一人歩いていました。
突然、消えました。
そう、新雪の中に倒れて埋もれてしまったのです。「こりゃーいかん」で何人かで駆けつけました。
雪の中から起こしたら酔っ払った中年のおじさんでした。
家はどこかと聞くと俺達と同じ方向だったので家まで送り届けました。
危うく凍死でしたね。雪解けの頃に死体となって発見されたでしょうね。
グラウンド脇にあった合宿所でクラス合宿しました。
「戦争を知らない子供たち」をクラスのやつらとギター弾いて歌ってました。
「走れコータロー」の競馬実況のセリフを完コピしてるやつがいました。
2回ケンカをしました。なぜかは忘れましたが、自分の事を馬鹿にされたんだと思います。
追い込んでボディーブロー一発でした。
やっぱりケンカは嫌ですね。
クラスの女子は「別人みたいだったよー」とビックリしてました。
中学校入学当初は、後ろから2番めくらいの身長でしたが、そこで打ち止め・・・卒業する頃は前から5番目くらいでした。
周りはどんどん成長してましたね!!
■青年期 (15〜24歳)
中学3年は、クラスの仲のいい友人が属していた応援部に入りました。女子がいた記憶はありません。
この部は楽しかったです。
応援部の白い校名入りユニフォームがあって、それに長ーいハチマキと白い手袋です。学生服は団長だけでした。
自転車や横荘線でスポーツ部の応援に駆けつけました。「フレーフレー雄中」「ソーレ」「フレーフレー雄中、フレーフレー雄中」
修学旅行は北海道の道南でした。学校からバスで移動し青函連絡船利用しました。ずーっと同じバスでした。
楽しかったはずなのにあんまり覚えていません。
クラス対抗のバスケットボール戦で、クラスにはバスケ部のレギュラーが2名いたので優勝しました。
試合の時、敵ゴール近くにほとんどの選手が集まっていたので、自分は誰かがボールをゲットしてくれると信じて敵のゴール近くにいました。
案の定ボールをゲットしてくれたので、ロングパスをもらいシュートした記憶があります。
全校運動会でクラスのリレーメンバーとなり2番手を走りました。
一人200mです。
バトンもらった時に4番手だったのですが、先行の3人が前半飛ばしすぎたためか後半で失速し自分が1番になりました。
「やったー」と思いましたが、リレー3番手がバトンを途中で落としてビリになりました。
しかし、アンカーが陸上部の短距離走選手でアッと言う間に7人抜いてトップでゴールしました。こんなに凄いんだーと感心しました。
クラス代表で出た走り高跳びはダメでした。入賞できずです。1m40cmがやっとでした。
背面跳びなんか無い時代です。
高校の受験勉強は結構しました。授業の他に1日8時間したこともありました。「中3時代」を参考にしてました。
冬は学校の補修を受けたりしてました。
志望校は、大曲のおじさんの意見で就職に有利な「横手工業高校」にしました。
大部分の人は地元の「沼館高校」に進学しました。今思うと自分もそうすればよかったなーと思いました。
好きなあの娘は「横手城南高校」(女子校)でした。
高校は横手工業高校(今は廃校)でした。
入学式には隣家の友人母と自分の母が行きました。
3年間電気科B組でした。担任も3年間同じ。
同期の女性は20人くらいだったかな!?
染色科にたくさんいました。電気科にはとなりに一人でした。
隣家の隆司は機械科でした。
俺の家の並び4世帯は同じ年のやつらがいました。
斜め向かいの裕子は高校行かずにはとバスのバスガイドになりました。
すぐ隣の隆司は横手工業高校、その隣の剛は沼館高校でした。
入学して少し経つと校庭に集められ、校歌や応援歌の練習がありました。
なんか、変な気分でした。
通学は1年の時は夏場->自転車、降雪時->バスで、1年の春休みに小型自動二輪の免許を取得
2年〜3年の夏場は125ccのオートバイ通学でした。俺がオートバイ欲しいと父に言ったら新車を買ってくれました。
ホンダ ベンリィ CB125JXです。
たまに学校帰りに遠回りしたり、バイク通の友人宅へ遊びに行ったりしてました。
オートバイは風を切って走る感じが好きでした。
先輩達は学園祭の時とかナナハンで来てました。ホンダのCB750です。乗りたかったなぁー
電気理論は手強かったなぁー、苦手でした。
3年の数学、因数分解の試験で100点とれました。嬉しかったです。
母は3年間、弁当を作ってくれました。ゆで卵の味噌漬け美味しかったです。2時限目の休み時間に半分、昼食時に半分食べたりしてました。
授業中に本で隠して弁当食べているのが見つかり叱られているやつがいました。
学食のラーメンが素朴で美味しかったです。中華そばだったかな!!
高校2年の時だったと思うけど、仲間と4人で男鹿半島へツーリングしました。とても楽しかったです。
すれ違うオートバイに指でサイン作って挨拶しました。
2年と3年の夏休みに東京の大井町でバイトをした。
川崎の叔母の家から電車で通った。
バイト先は、叔母の旦那さんの友人で小さい町工場でプラスチック製品の生成なんかしてた。
そんで俺は出来上がった製品を磨く仕事だった。
かなり稼がせてもらった。
3年の時に叔母の旦那さんの故郷である長野に行った。
軽井沢とか近辺の観光地に行った。
それにしても、往復の交通費と宿泊費は誰が出してくれたんだろう。
3年の冬、この年は大雪でした。
学校の雪下ろし手伝いで大判焼きと温かいほうじ茶が振る舞われました。
ある日、大雪ですが朝にはバスが通っていて、学校終わってから仲間二人とボーリングしてました。
適当に遊んだのでバスターミナルに行ったら「運休」の張り紙。
そう、ボーリングしている間に大雪でバス運休になっていたのです。
三人して歩いて帰ることになりました。俺の家まで 13km あります。途中疲れて3人で笑ってました。
3時間40分かかりました。
確か、2m40cmだかの積雪だったと思います。
自宅の玄関がまるで地下にあるような感覚で、家の中も暗かったです。2階の部屋から雪の積もった道路に出られました。
父、母、自分とで雪下ろししました。母が滑って下に落ちたのですが、腰まで雪に埋もれてました。
雪解けの頃、除雪して端に積もった雪の中空に自家用車が埋もれてました。ずーっと雪の中だったので使い物にならなくなっていたと思います。
3年になると進路の話が出ます。
当初、色々考えましたが、いずれ家督を継ぐのだろうと思い学校主催で地元の企業見学に行きました。
なんとなくですが、郵政に入社して沼館の郵便局で郵便配達とかいいなーとの考え方もあり、初級国家公務員を受験すべくテキスト購入して勉強してました。
そんな折、担任の先生から電電公社の推薦試験を受けてみないかとの話がありました。
推薦だと筆記試験が無く面接試験のみとのこと。何も考えなくお願いすることになりました。
ところが、ある時に担任から「推薦は■■になったから」とあっけない言葉。■■は母子家庭のやつだったので、仕方ないかーーーであきらめ。
もう、郵政の募集は締め切られてました。
推薦から一般試験になったので筆記試験の勉強始めた。
でも、何使って勉強したかは覚えていない。
筆記試験の場所もどこだったか全然覚えていない。
面接試験は秋田市のどこかだったという記憶はある。
そんで、無事合格となったわけです。10月頃だったかな!?
冬、横手自動車学校に通い教習を受けた。
卒業検定で1回落ちてしまい、2回めの検定で合格した。
秋田の運転免許試験場で法規試験を受けて合格、晴れて自動車を運転できることとなった。
高校の卒業式の記憶は無い。
4月になったらすぐに入社できるものと思っていたけど、採用は別途だという通知がきていた。
しばらく、家でゴロゴロしていたと思う。
大曲の叔父がスズキ フロンテクーペを買ってくれた。当時は羽振りよかった。
横手電報電話局 機械課で2ヶ月くらいバイトしていた。フロンテクーペで通った。
面白い人たちがいたけど、もう忘れてしまった。
十文字の無人局で作業のお手伝いをした。直行直帰でよかった。
大型自動二輪免許取得のため大曲自動車学校に通った。小型自動二輪の免許あったので限定解除ということで教習2時間で卒業だった。
教習車は、SUZUKI GT-380 だった。
秋田の運転免許試験場に行き免許の手続きをした。
弟がSUZUKI GT-750に乗っていたので、この時初めて運転した。水冷3気筒である。
2サイクルエンジンなので加速すると煙出して走った。
夏、雄物川の花火大会の後で、中学校の校庭で数人の同級生とたむろしてたら、それぞれが他の同級生に連絡して10数人集まった。
何するわけでもなく雑談してたら「田沢湖行こう」と言い出したやつがいて、車数台に同乗して現地へ向かった。
出発が遅い時間だったので田沢湖には夜明け頃に着いた。
まだ人がいない時間だった。
俺の車には、仲良くしていた友人と女性2人が同乗した。
なんか、淡い甘い感じの記憶である。
地元に戻って解散、それぞれを自宅まで送って一人になったら「はぁーーー」とため息。なんか、切ない気持ちになった。
そうこうしているうちに、採用通知が来た。
昭和50年10月 1日採用で仙台電信施設所と書かれていた。どういう施設なんだろう!? 聞いたことないなぁー・・・と思った。
宿泊場所の案内なかったし、仙台には知り合いがいないので、どうしようか考えていたら大曲のおじさんに仙台の親戚がいるらしい。
そこに泊まらせてもらうことになった。
仙台に向かう日、前日大曲のおじさんちに泊まって出発したか、実家にいて横手から出発したか覚えていない。
また、おじさんが同行したかどうかも記憶にない。
ただ、家を出る時に母が涙ぐんでいたのを覚えている。
交通機関は、国鉄陸羽東線であった。
汽車での中のこと、仙台駅についてからのこと、おじさんの親戚に行ったこと等々ほとんど記憶にない。
断片的に可愛らしいお嬢さんと理髪そうな男の子がいたと思う。
そのほかの記憶も全くない。
翌日、親戚のおじさんがモーニングコーヒーをご馳走してくれた。
そこまでは、親戚のおじさんが出勤途中に喫茶店に立ち寄ったのだと思う。
親戚のおじさんと別れた後、タクシーに乗ったと思った。
そんで行き先告げてどこかのビルについたけどどうやら違ったらしく、資料を見せたら守衛の方が「中電ビルだよ!」と言ってくれた。
後から分かったけど、この時に行ったビルは仙台電話局だった。
なんとか入社式に間に合った。入社式のことは覚えていないが、同期は5人だった。
入社式後に父は家に帰ったようだけど全然覚えていない。
その後の事はあまり記憶にない。
お宿は「つた寮」とかいうところだった。同期5人のほかに別組織入社何人かがいた。
ふとんが足りないとのことで、会社の課長さんが持って来てくれた。
最初の土曜日の午後(当時は土曜日に半日勤務だった)にもう一人のやつと実家に帰った。
帰って何をしたかの記憶は無い。
家族と酒飲んで、何か語り合って翌日に仙台へ戻った。何したかったのだろう・・・
その後、何日か勤務して仙台電気通信学園(砂押)での前期訓練が一ヶ月くらいあった。
無線通信、搬送通信、電信、電力が肩書のメンバだった。
訓練中の事は全然覚えていない。
訓練中に、独身寮が決まった。ふとんは秋田の実家から送ってもらった。
訓練中のやつ一人と同じ、長町新田寮だった。すぐ近くにこけし塔があった。
部屋は二人部屋で入居当初の先輩は線路技術の人で出張が多く週末しかいなかった。いい人だった。
確か1階が8部屋で2階が8部屋だったと思う。
1階の2部屋は寮母さんの部屋だった。小学生くらいの素直な男の子がいた。
仙台駅前まで直通の市バスがあったけど、国鉄長町駅まで歩いて鈍行に乗って通勤した。
長町駅の立ち食いそばが美味しくて、たまに朝食として食べた。
特徴のあるアクの強い先輩たちが多くて、よく酒を飲んだ。楽しかった。
時期は忘れたけど、仙台電気通信学園(砂押)での後期訓練が3ヶ月くらいあった。
この時は電信機械班だった。
東北各県から集って日々学習した。楽しかった。
当時「空手バカ一代」が流行ってて、青森から来た二人が雪の中で組手してた。
弟がもうバイクに乗らなくなったので、帰省した時に乗って帰った。「スズキ GT-750」だった。
仙台音楽鑑賞協会(仙音)の会員になり、神割崎のキャンプに寮の後輩と同期のやつに借りた「ホンダ
CB-550」で二人乗りして行った。
「スズキ GT-750」は同期のやつに貸した。
お天気も良くてキャンプファイヤーしたり泳いだりして女子も何人かいて楽しかった。
この寮には3年くらいいた。
今日はここまで・・・・令和5年(2023年)11月12日(日)
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